飴屋のいろいろ


飴屋の由来

1991年頃(だと思う),風邪でノドをエラくやられてのど飴を色々と試すうちにのど飴の評論家を始めたことがある。そしたらいつの間にか飴屋と呼ばれるようになったのが最初。名付け親はOh!FM-Networkにいた福沢さん(たぶん)。


飴屋車

略称アメ車。本当にアメ車のようにデカい。1981年式のクラウンロイヤルサルーン。1993年春に譲り受ける。元々は奈良の某市の公用車。2000年春まで頑張っていた。女の子を乗せると調子悪くなるので性別は女性なんだと思う。で,色々とお気に入りだったのだけど,おいらが殆どメンテナンスをしなかったお陰であちこち調子悪くなり,バックギアに入れるとエンストしてしまう。他にもローギアでエンジンブレーキをかけると走行中にエンストする。さすがに危険なので仕方なく涙の廃車。享年19歳。長寿でした。

飴屋車写真1   飴屋車写真2
ありし日の飴屋車 リバイバルブーム中のコラムシフトでした



飴屋車Rev.2

何かと不便なので2000年6月にRev.2を導入。軍資金が無いので近所の中古車屋で初代ワゴンRを買う。クラウンと比べるとトルクが全くないのが痛いが,同じ量のガソリンで3倍近く走るのがお気に入り。初代はなかなか可愛いので良い感じ。貨物室も広く冷蔵庫や机,洗濯機も乗り,この車の数往復で家の引越作業ができた。深いグリーンはいい色。

ところがこの車,マッタリ走る分には快適なのだが時速100キロ前後で飛ばしまくると背が高いせいか風に煽られまくったり,ステアリングに伝わる振動が大きかったりで半ば冷や汗モノとなる。滅多に高速道路は使わなかったのでそれで問題なかったのだが,2002年秋に毎日高速を使って往復しなければならないようなことがあり神経をすり減らして買い替えを決意。実家の倉庫を引き上げることになったので,貨物自動車としての需要が無くなってしまったのである。流石に命がかかっているので決断は早い。さっさと会社の人に売られていきました。

飴屋車Rev.2写真
ありし日の飴屋車Rev.2。アルミホイールに替えた後。



飴屋車Rev.3

ワゴンR以来,ちっちゃくてカワイイ車にハマってしまったので,次も小型車を物色。背の高い車は懲りているので候補から外し,軽自動車や全長が4mを超える車も候補から外す。前のワゴンRのグリーンは気に入っていたので,近い色が希望。新型マーチや新型デミオが良さそうだったが,中古市場ではまだまだ割高。ヴィッツはレンタカーで乗ったら酷い走りで時速100キロ前後での神経のすり減り方がワゴンRと差程変わらなかったので却下。フィットは角張ったデザインが可愛くない。ストーリア(デュエット)はモデルチェンジでデザインが悪くなったので検討外。三菱コルトはまだ無かったがあの人を喰ったガンダム顔は『可愛い』の対極だし,あの窓の小ささでは検討に加えなかったと思う。

国産小型車はそれで一巡してしまったので,それならラテン系の外国車が面白いのではないかということで,プント,ルーテシア(クリオ),トゥインゴを検討。プントが面白そうだったが市場が小さく,高い。フィアットは倒産するのではないかという噂もチラホラ。日産マーチのようなデザインになったルーテシアは憧れだが,新型は中古でも結構高いし旧型はATがよく壊れる(3速に入りっぱなしになる)という大きな欠点がある。結局予算の関係でフランス製のトゥインゴに決定。安いOHVタイプとちょっと高いOHCタイプがあり,更に現行車はよく走る変則AT。OHVは高温多湿の日本ではデスビの故障が多いという話,現行車は昨年秋のモデルだけあって殆ど中古市場には出ず色選択の自由無し。という事情でOHCモノを物色。

この車,エンジンは軽自動車並(58馬力)で非力だが,車体も軽自動車並の軽さなのでなかなか良く走る。踏ん張りが効くので,同じ馬力の軽自動車より運転はかなり楽。但しブレーキはアシストが無いので重く,トヨタ並のガツンブレーキを期待すると事故を起こす。ちゃんと踏めば効くのでブレーキ力自体は問題無いのだろうが,フランス人の女の子は脚力が強いのだろうか。パーキングブレーキも重いので坂道発進を繰り返すと腕力もつく。その代わり足の指で滅茶苦茶細かいブレーキ調整ができるので,全くショック無しで停止することが可能。トヨタ車ではエンストでもしない限り絶対無理(笑)。坂道発進という話でお気付きの方もいらっしゃるだろうが,この車,今時マニュアルである。とは言ってもクラッチ無のイージ仕様。俗に言うセミオートマ。メチャクチャにクセのあるこの機構を満足に扱えるようになるまで相当練習したが,慣れると普通のオートマよりスムーズに変速させることが出来るようになる。

マニュアル車というお陰で燃費はなかなか良く,15Km前後は走る。ワゴンRと同じ位か,1〜2割上。でもハイオク指定なのでガソリン価格も1割上なのだが。期待した高速性能はかなり良く(中古外車屋の営業の話は嘘ではなかった),かなりのスピードを出しても全く安定している。直線は前のクラウン並の安定度。カーブはクラウンを超えている。足の柔らかさとある程度のカーブ性能は両立するモノなんだということを知る。後輪に長いコイルバネと長めのダンパーを入れていて,床を多少上げて割と真面目なスタビライザーを装着。お陰でハッチバック部分の使い勝手を多少犠牲にしているのだが,乗り心地は良い。日本車だったらこんな車作ったら営業部門が許さないと思う。室内広々でないと売れない。営業に邪魔されて真面目に作れなかったシャーシーや足回りやエンジンマウントはダンパーとゴムの多用で誤魔化す。彼らはそういった技術では世界一である。そういう車は街乗りでは十分だけども高速道路でボロを出す。トゥインゴはルノー車ではローコストの最低ランクながらも椅子が良く出来ていて,長時間運転していて腰が痛くならない。後席がベンチシートでなくバケットシートなので定員乗車しか出来なくなってしまっているが,普段は2シータで十分なので問題ないと思う。後席が広いのも特出。ハッチバック部分の荷物の量によって前後するようになっており,空荷ならば一番後ろまで下げられるのでクラウン並の空間を確保することができる。これはびっくり。でももともとバネのお陰で狭い上にこれをやると全く荷物が乗らない。僕には十分なのだけど,こんな車は日本では売れないだろう。

飴屋車Rev.3写真
可愛いトゥインゴ。右側はフランス車仲間所有のプジョー206



飴屋製作所

ねこみみさんのねこみみラボに刺激されてつくった個人的組織。でも大したモノは作っていない。得意分野はマイコン応用機器の設計/製作と家電品の修理(ちゃんと資格もあるよん)だが,注文があれば(なくても)何でも作る。最近作ったのはオーディオ評論家の長岡鉄男追悼記念の長岡式バックロードホーン(低音を出す為にホーンが付いたヘンなオーディオ用スピーカ)D100。これが長岡式なので『重くて丈夫で鳴きにくい』特徴を持っているのだが,この「重くて」のお陰で相当評判悪い。こいつは小型のくせになかなか凄い低音を奏でてくれる。

スピーカ写真   靴の写真
長岡式D100の内部 お友達の女の子に頼まれて作ったバービー人形用の靴


飴屋的蜘蛛頁

ameya's web-pageの漢字による直訳である。エアコンを空気調節と訳す香港的センスを導入している。本当は『出鱈目的飴屋』(昔,劇団健康(現ナイロン100℃)が出したCD,出鱈目都市東京の中のコントのパロディ)にしようと思ったのだけど,説明無しで元ネタが理解できる人はおいらの周りに1人しかいないので却下。前は"(O-YA-KU-SO-KU)"というタイトルで,「えっ,HPってヒューレットパッカードのことじゃなかったの?」といってHP社へのリンクを貼るというお約束ボケ頁だったのだが,3年ぶり位にリニューアルオープン。さて,いつまで続くのだろうか。


飴屋の生い立ち

小学生の頃,何となく芝居に目覚めて演劇の道に進む。男一人で孤軍奮闘するハメに陥る。組織の層は厚くセリフ1つの役に泣くが,見事リベンジを果たしその後は主役級を連発する。

中学生の頃,演劇部先輩のお姉様方に可愛がられ,年上の女性に可愛がられる術を知る。当時はやせていて割と格好よかった(らしい)ので,お姉様方には意外とモテていた。コミケを覚えたのもこの頃。会場が地元だったので自転車で通う。変声期の頃にも俳優用の音声訓練を自主的にしていた為,地声がやたらと低い,歌声風の良い声になる。これは後々色々な機会で歌うようになってから役に立つ。中学2年の頃,日本演劇教育連盟という組織の研究公演に出演する。先生が酒の付き合いで出場を決めてしまったらしい。変声期はこの後で,ちょっと辛かったのを覚えている。中学3年のときに打った芝居は自信作だったのだが,江東区の大会で他の学校が打ったミュージカル物の圧倒的物量投入作戦に完敗し都大会出場を逃す。それ以来しばらくミュージカルコンプレックスが続く。

高校生の頃,芝居は続けていたが,演出をやるようになり先輩方にとってはあまり可愛くなかったので(そりゃ先輩に対しても遠慮なくダメ出してるんだから嫌な奴だよな),可愛がられることもなく我が道を行く(第三舞台のコピーとかやった)。その後の人生ではバイト先(某大手製薬会社)で秘書課のお姉様方に可愛がられることはあったが,それっきりである。就職してからはデブになってしまったので,今後も多分無いと思う。あ,でもオバサンにはモテる。これは何故かずっと変わってない。

内緒のバイトで経済力はあったので,色々と芝居を見に行く。この頃のお気に入りはメジャーでは自転車キンクリート『水に絵を描く』『ガールフレンド』,夢の遊眠社『野獣降臨』『半神(New Version)』,小さな所ではロバ企画(解散公演だけ凄く良かった),黄色舞伎團II,スタジオライフ,ビタミン大使ABC等。資料としてチラシやパンフを数千枚集めていたのだが,就職して寮住まいをしたときに母親が新聞広告だと思って全部捨ててしまった。その事件以来,馬鹿馬鹿しくなって収集はしていない。

そうこうしている間に,クラスメイトに五千円で売ってもらったFM-NEW7というパソコンで突然アセンブラに目覚める。池袋シアターグリーンで芝居を見た後,丸の内線でそのまま秋葉原に向い,パソコン系のジャンクを漁るという日々が続く。そうでない日は当時参加していたロックバンドの練習でスタジオへ(このバンドは結構な実力があった)。当然大学なんか合格する筈もなく(というか,家庭の事情で文学部なんか行かせて貰えなかった),シアターグリーンに定期券で行けるという理由(嘘)で池袋の電気系専門学校へ通うことになる。その頃は割と自分の時間も持てたので,パソコン通信の傍らアセンブラで色々な作品を作る。その中ではFM77AV用の画像ローダが一番ウケた。これは中にCPUが2つ入っているパソコンで,メインのCPUはファイルアクセスに集中し,圧縮の展開はサブのCPUが受け持つ。そして画面展開は直線補間描画LSIを直接触って描く。こんな複雑な動作をしているお陰で,圧縮の効いた絵なら従来1分位かかっていたモノが数秒で展開できるようになった。他にもDraco-CというC言語による開発環境でシフトJISによる漢字出力をする為の特製ランタイムルーチンなんかも作ったが,これは漢字出力の元ネタコードを提供してくれた人と連絡が取れなかったので一般公開を諦め,周りにこっそり配るだけにする。

某大手電機メーカに就職してからは電話がなくなり焦る。その頃つきあっていた彼女との連絡用にテレホンカードを数十枚使ったのを覚えている(これに懲りて遠距離恋愛はこれっきり/そいや谷山浩子MLで誰かが遠距離恋愛は300km離れてないと9割以上は失敗すると言ってたなぁ)。一番困ったのがパソコン関連で,今ならPHSを使えば良いが,当時はまだ高価だったノートパソコンと音響カプラ(死語)を使って公衆電話に接続しないとメールも読めなかったのである。当然そんな物を買う金は無いので,コンピュータを扱う電機屋のくせにこれはないんじゃないかと詰め寄ったが,当時はNiftyServeと言ってもなんのことか通じず,無視されてしまった。電話は半年後に寮を変更してなんとかなったが,以降,いまでに優秀な人の就職先には勤務先を人に勧めてはいない。だいたい電機屋のくせに寮でハンダゴテが使用禁止なのだから。そんなナンセンスな話はない。

94年,出張や旅行でアジアに目覚める。香港明星情報はいまでに色々と入ってくる。翌95年,友人の失恋をキッカケにして有志を募り合唱サークルを始める。これはお陰様で今でも続いている(キッカケとなった人も他のメンバーと結婚し,今は立派な一児の母である)(2002.4追記/今は二児の母)。その後,会社の中で一時期だけ学生になってしまったり,油絵を習ってみたり,第九を歌う合唱団に参加してみたりと,色々である。最近は劇団を始めたくてウズウズしているのだが,メンバーを集めなければならないし,時間もカネも全く余裕がないところが哀しいところである。転職でもしないとダメかな。誰か適当な条件で雇ってください。演劇人なのでまとまった休みが沢山欲しいです。そんなムシのいい話無いか。

2006年12月。うっかり結婚。のだめちゃんのような嫁(笑)

2009年10月。諸事情にて離婚。

2011年12月。諸事情にて再婚。人生いろいろ。たまゆらの桜田麻音ちゃんのような嫁(笑)


残りは工事中です。そのうちまた書き足します。  更新 2002/11/23
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